「えんどーさんって怖い人がいないね。」
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そして、その後まもなく『うる星やつら』(1981年~)で初の作画監督を担当されるのですね。そのあたりのいきさつをお願いします。
A)二原から原画に上がれるタイミングでして、『まいっちんぐマチコ先生』の原画を一人で担当させてもらえるはずだったのに、急にぴえろ(アニメスタジオ)で「うる星」の制作が決まって・・。人手が足りないので、半年やったら原画の仕事に戻すから・・という話でした。
キャラクターのラムちゃんを可愛く直す(※作画の不統一を修正する作業)だけでいいんだけど、そういう役職が無いから”作監”ということになりまして、「クレジットの作画スタッフの一番上にドーンと名前が出るけど、いいか?」と問われましたが、別に気にならなかったので、そのまま引き受けました・・。
その時、高橋さんから「ペンネーム使ってもいいよ」と言われ、 それまで自分の人生が重苦しいのは全部、名前のせいだと思ってたので・・“改名”することにしました。(笑)
いわゆる「職業ネーム」はありだと思いますけど、“改名”って戸籍まで変えちゃうことですよね。昨今でも「キラキラネーム」とか嫌で改名することもあるみたいですが、当時だとけっこう勇気ある?行動かと。意外に、怖い物なし・・なんでしょうか?
A)ぴえろでは、「えんどーさんって怖い人がいないね。」とか言われて・・「だって、上司はぴえろにいないじゃん?」とか思ってましたが、かなり本質的なことだったかなあ・・と今さら思います(笑)
たくましいです・・。では、当時のぴえろ(社内)はどんな様子だったのでしょう??また、いわゆる・・うる星の“暴走アニメーター”と評される若手アニメーターたちの仕事をみて、今だから言える・・ような話とかあれば、ぜひお聞かせください。
A)当時でも遠慮なく言ってたので、今だからというのは何もないです。
“暴走アニメーター”は絵のパワーが凄くて、自分の力も引っ張り出されるようでした。上手すぎても、(絵を)直さなきゃいけないんだなとか・・個性がありすぎることについて考えたりしました。
たしかに、アニメーターというお仕事は「個性がありすぎる」ではやりずらいこともあると思います・・(笑)
A)でも、世の中には素晴らしい人たちがいるんだなあと思ってました・・!(「素晴らしいけど似せろよ!」と怒って直してましたがっ。)
うる星班は若手の集まりで、なんか楽しかったです。仕上げや制作の人たちとも交流があり、世界が広がったと思います。私は本当に自由にやらせてもらっていたのだなあと思います・・。
遠藤さんは作画マニアたちの間で “修正の女神“と言われ、たいへん好評だったそうです(笑)それから『うる星やつら』は社会現象とも言われたブームを巻き起こし、熱狂的なアニメファンも相当増えた時代だったかと思うんですが(その後アニメーターを目指す若者に大きな影響を与えた作品でした)遠藤さん自身はそういった世間の評判などは、実際作り手の側にいて感じることはあったんでしょうか?当時のアニメ雑誌なども盛んに特集を組んでいたと思いますし・・アニメーターという職業も脚光をあびたり、「人気アニメーター」「スターアニメーター」といった人たちも出てきた時代でしたね

A) 私はまだ当時、新人だったし、明らかに力不足だし、まだ早いと思ってました。それに自分はスターになる気は無くて“無名の職人”みたいになりたいと思ってたので、完全に他人事でした~
逆にプレッシャーとかもなかったのですか?
A) 私は実は、プレッシャーにめちゃくちゃ弱くて、「がんばって」の一言でマトモに絵が描けなくなって引きこもるくらい弱いので、質問されているようなことは全て他人事としてスルーしていて、自分のプレッシャーは無かったと思います。プレッシャーじゃなくて、キャラクター可愛く表現したいとか、良い作品になったらいいなとか、絵が上手くなりたいとか、・・そういった、自分の思い入れだけはあったと思います。
そうだ・・その頃のわたしのモットーは「ビビット!」ということでした(笑)
うむ・・そうだったんですね。当時の様子、いろいろありがとうございました。

(’83年アニメージュ6月号より)